2007年07月27日
ジョン・レノン
ロックといったらビートルズ、ビートルズといったらジョン・レノンだよね。
そんなジョン・レノンについて解説します。
ジョン・レノン MBE(John Winston Ono Lennon, MBE-ジョン・ウィンストン・オノ・レノン, 1940年10月9日 - 1980年12月8日)は、20世紀ミュージシャンの象徴、または(歌手、作詞・作曲家、ギタリスト)。イギリス・リヴァプール生まれ。ロックバンド、ザ・ビートルズの中心メンバーであった。MBE勲章受勲時の本名はJohn Winston Lennon, MBE、オノ・ヨーコと結婚後ミドルネームをOnoとするが、認められずJohn Winston Ono Lennonと改名。
ビートルズ時代には、ポール・マッカートニーと作曲タッグを組み数多くの名曲を残した。ビートルズ解散後は「イマジン」などの名曲を発表する一方、妻で芸術家のオノ・ヨーコとともに平和運動家としても活動した。ギネスワールドレコードでは最も成功したソングライターとしてチャート1位の曲が米国で盟友のポール・マッカートニーが32曲、レノンが26曲(共作は23曲)、英国チャートでレノンが29曲、マッカートニーが28曲(共作が25曲)と紹介されている。
1980年12月8日、ニューヨーク市の自宅アパート「ダコタハウス」前において、狂信的なファンとされるマーク・チャップマンに殺害された。
以上が簡単な概要なんだけど、ジョン・レノンといったらポール・マッカートニーとの関係との関係が気になるところだよね。
ビートルズ後期及び解散後におけるマッカートニーとの確執が、二人の関係を語る上で頻繁に取り沙汰されるが、これは当人たちよりむしろマスコミやファンがそれを面白がり、煽っていた節もある。確かにビートルズ解散直後しばらくは互いの楽曲中で中傷しあう(「ラム」でのマッカートニーのレノンへの皮肉は「イマジン」における「ラム」のパロディー、「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ」におけるマッカートニー作品が軽音楽のようだという歌詞、「ウィングス・ワイルド・ライフ」における「ディア・フレンド」がレノンを指すなど)深い確執が存在したが、1970年代中頃になると、互いを賞賛しあう発言やビートルズ再結成の可能性を肯定するような発言がみられるようになり、マッカートニーが自らのバンド「ウイングス」でアメリカ・ツアーを行った際には時折レノンのもとを訪れるなど親交を取り戻すようになった。1974年にはスティービー・ワンダーらとともにジャム・セッションを行い、「スタンド・バイ・ミー」や「ルシール」などロックンロールのスタンダードを一緒に演奏したテープも残されている。
またレノンは常に「マッカートニーは『兄弟』であり、彼との確執は『兄弟ゲンカ』みたいなもので他人が干渉してくる筋合いはない」というスタンスを保ち続けていた。マッカートニーを卑下する発言をするものに対しては「ポールの悪口を言ってもいいのは俺だけだ、他の奴が言うのは許さない」と発言している。レノンとは飲み友達でオノとの別居中は共同生活を送っていたハリー・ニルソンや秘書のメイ・パンにでさえ、マッカートニーの悪口を言うことは許さなかったという。またレノンは「俺が認めたパートナーはマッカートニーとヨーコだけだ」とも発言している。
ビートルズ解散後レノンとマッカートニーが揃って公の場に姿を見せることは一度もなかったが、息子ショーン誕生後5年間に渡って音楽活動を停止していた間も時折マッカートニーはレノンを訪ねたり、1980年のマッカートニーのヒット曲「カミング・アップ」が、レノンに音楽活動を再開させるきっかけになったりなど、常にいい意味で刺激しあう仲であったといえよう。またマッカートニーは90年代に入ってレノンの「平和を我らに」、ビートルズ時代はレノンがボーカルを担当した「ヘルプ!」「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」「カム・トゥゲザー」などをカバーすることもあり、全世界のファンの胸をうった。
やっぱり実力のあるもの同士だと争いもあるけど、相手の実力を否定しないところがすごいと思います。
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- at 23:01
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